1 テレマーク世界選手権の歩みとTAJ 1987-2001 三谷玉枝
 2 世界選手権&ワールドカップの歩み 2001-2007  畑 あやの
 3 世界選手権ワールドカップ年表

テレマーク世界選手権の歩みとTAJ 1987-2001

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年報用原稿 (2000年9月 記:三谷 玉枝)


 今から13年前の1987年に、現在のテレマーク世界選手権大会の前身である第1回インターナショナルテレマークグランプリが、テレマーク発祥の国、ノルウェーのヘムセダールで開催された。TAJが設立されて3年目のこの頃、日本のテレマークレースにはジャンプはまだなく、GSレースのみ。クラシックレースやクラシックスプリントレースなどはまだ知られていなかった。テレマークターン規定やレースルールも各国それぞれであった。
  この初の国際レースに日本からは、当時の日本のテレマークレース常勝・山崎守と、TAJ前会長の澤田啓が参加した。帰ってきた二人の報告を聞いて、皆唖然とした。コースは長く、コース中にまるでジャンプ競技のようなジャンプ台があり、上からは着地地点はまったく見えないという。この巨大なジャンプ台をノルウェー人たちは難なく飛び、ヘリコやら開脚を決めていたというのだ。
 この大会には70年代にテレマークを再興し、自国でテレマークレースが盛んであったアメリカからも多くのレーサー達が参加した。当時のアメリカのレース界で有名であったW.ザーロウもこのレースに参加したが、20以上のペナルティを課せられて大敗。結果は北欧勢の圧勝であった。

 翌1988年にはテレマーク世界選手権と名を変えて、第2回目の大会がフランスのサンジェルベにて開かれた。あいにくTAJはこの年には代表を送ることが出来なかったが、この大会の時に、世界テレマーク委員会(ITC)が結成され、議長にノルウェーのエニッチ、書記にアメリカのブラウンが選出され、テレマークターン規定、用具規定が制定された。スキー巾はこの会議にて決定され、世界各国の郵送による投票で決まったものである。また、GSレースに加えてもう1種目レースをするというのも、この時に決定され、翌年の大会からスタートすることとなった。
 



 さて1989年、第3回世界選手権がオーストリア・サンアントンにて参加17ヶ国、200名以上の選手を集めて開催された。当時TAJ専務理事であった矢村氏が、世界の動きから取り残されないためにも日本が世界大会に参加する必要があると考え、その頃日本のレースで頭角をあらわしてきた坂根一弘・田中公人・松本美富・横山雅直・白石由美を誘い、また通訳に三谷玉枝を伴って参加した。
 この時の大会の種目はGSとクラシック、初の世界レベルのクラシックレースということで、まだ細かい規定はできていなかったが、主催者側がノルウェーのアドバイスにより、力を尽くして作ったコースレイアウトは壮大で、現在の世界戦のコースにも劣らないものであった。初めて世界レベルの大会を経験する日本人レーサー達にとって、このレースは過酷なものであった。負傷者をヘリで救出する場面まであった大荒れのクラシックレースでは、松本選手がウォッシュボードで大クラッシュし、肋骨を折るけがをしてしまったのだ。
 ITCの会議では、新たにノルウェーのトルゲイ・グンレイクスラッドが議長として選出され、クラシックレース規定が制定された。クラシックに誇りを持つノルウェーに対して、少しでも自国に有利なルールにしようとアメリカが対抗し、議論は白熱した。また、前年に制定された用具規定のスキー巾を、はやくもフィッシャーが巾広のモールドを作ってしまったという理由で改正してほしいと申し出てきて、会議は大荒れとなった。ここでしびれを切らした矢村氏が、国際委員会の責任と役割を日本語で持ち前の大声でスピーチして委員会の軽率な動きを牽制し、投票の結果スキー巾の改正はしないこととなった。
 この大会ではノルウェーが44名、ドイツが32名、アメリカが20名と各国から多くの参加者を集めたが、この会議において参加選手制限枠も決定された。世界大会にはじめてチームとして参加した日本は、パーティではハッピ姿で大うけし、その存在を大いにアピールして一目置かれる存在となった。

 1990年にはアメリカ・アスペンにて第4回世界選手権が開かれた。選手制限枠や地理的に遠いとはいうものの参加国14、参加選手は女子約30名を含む150名を集め、種目はGS・クラシックに加えて、アメリカの誇りとするデュアルレースが用意されていた。ノルウェーを迎え撃つアメリカの意気込みの感じられる大会であった。日本からは8名の参加、特にアルペンのプロサーキットレース経験を持つ当時のテレマークレースチャンプ石川秀行の活躍に期待がかかっていた。
 今大会ではクラシックレースではノルウェーが上位3位まで占め、GSは1位と3位がアメリカ、2位にノルウェーが入り、デュアルではアメリカが上位3位を占めるという面白い結果となった。第1回大会で大敗したアメリカのW.ザーロウがGSで1位、デュアルで2位の成績であった。日本期待の石川選手はGSで20位という成績を残した。期待していたデュアルでは良いタイムが出たのだがペナルティを多くとられ、結果28位となった。これに続き松本選手が35位という成績であった。
 大会と同時に開かれたITCの会議では、テレマークターン規定がより詳しく定められ、ペナルティの取り方もより明確となった。一度後ろにある足が前へ動き出したら途中で止まってしまってはペナルティというのはこの時に決められたことである。このルールによりレーステクニックは大きく変わっていった。また1994年のリレハンメルオリンピックに向けてテレマークを公式種目にしてもらうべくアピールする態勢を取ることとなった。

 翌1991年、第5回の大会はスウェーデンのヴェムダーレンで開催された。参加15ヶ国124名、サポート、役員などを含めると300名を集めての大会であった。この大会では北欧が上位3位をほとんど占め、アメリカが男子1位をとったデュアルレース以外のレースでの優勝は全てノルウェーが勝ち取った。GSでまったく振るわなかったアメリカは、デュアルレースを抗議で棄権するレーサーが出るなど荒れ気味であった。特にまだ規定のないデュアルレースのやり方が、スウェーデンふうにゴール直前に360度ターンを入れるという独特のものであったために、デュアルの本場アメリカのレーサー達の不満が爆発したようだ。
 この時のITCの会議では書記のアメリカのブラウンが欠席のため、急遽日本の三谷玉枝が書記を勤めることとなった。三谷はこの後1995年のリレハンメルでITCがFISに吸収されるまで、5年間ITCの書記を務めることとなる。ノルウェーとアメリカの対立が激化しており、中立的立場の日本の役割が重要視されたようである。アメリカはデュアルレースを正式種目にと提案し話し合われたが、結論が出ずに翌年持ち越しの議題となった。

 1992年の大会はスイスのエンゲルベルグで開催された。参加17ヶ国、161名(うち女子45名)、日本からは栃内選手をはじめとして4名の参加。この大会では、それまでの大方の流れであったクラシックのノルウェー、GSのアメリカという力関係が崩れ、その他の国が台頭してきた。スウェーデンのリカルドソンがGS初優勝、スイスのレオポルド、ドイツのブラッケンフォファー、カナダのニエガなどごく最近まで上位を占めていた選手達の名前が、この大会の上位入賞者を占めている。また日本にきてTAJ研修会で講師を務めたことのあるおなじみのオーストラリアのピーター・マックはこの大会のクラシックで5位に入賞している。
 ITCは、議長に新しくスウェーデンのハンソン、書記には日本の三谷玉枝が正式に就任した。また会の呼び名を国際テレマーク委員会(ITC)から国際テレマーク連盟(ITF)にかえ、大方のルールの整ったITFでは、組織固めに力を入れ始める。強力なリーダーシップを発揮していたアメリカのブラウンがこの前の年からITCから離れたことで、アメリカは会議において力を失っていき、懸案であったデュアルレースを正式種目にするかどうかの問題は、クラシックレース一筋の北欧勢の反対にあってうやむやとなっていった。この大会では、改造ブーツや手作りスペーサーなど問題の多かった用具規定については、用具ジャッジをおくことで違反しているレーサーを失格とする手段がとられた。

 翌1993年の世界選手権はイタリアのクールメイユールで開かれた。陽気なイタリアのお国柄、開会式はそれまでで一番派手で、選手団の街中パレードまで企画されていた。正式種目のクラシックとGSのほかに、デュアルレースとさらにスーパーテレマークなる新しい種目が主催者側で用意され、盛りだくさんのプログラムであったが、時間にルーズだったり、コースが危険過ぎて負傷者を多く出したりと、波瀾含みのレースとなった。それまでの綿密な企画の北欧やスイス・アメリカの大会とはかなり違う雰囲気のものであった。成績ではノルウェーが盛り返し、北欧勢大勝のレースとなった。日本選手では、栃内選手がスーパーテレマークで45位に入ったのが最高成績であった。
 ITFの会議では、スペーサーをルールに取り入れることになり、またクラシックとGSの2種目のみを正式種目とし、ほかの種目は主催者のチョイスとしてテレマーク普及とファンレースという意味合いで自由に選んで良いということを決定した。

 1994年には、フランス・ラクルーザで世界選手権が開かれた。参加17ヶ国、選手140名(女子45名)、雪不足と悪天候の中開かれた大会は、ノルウェーの圧勝に終わったが、同時に開かれたコスチュームレースで日本は男女とも優勝を奪った。テレマークとは何の関係もないのだが、着物に袴の女学生スタイル、ハッピに鉢巻、纏を持った江戸火消し衆、蓑と笠の船頭スタイルなどものめずらしさが大いに受けた。
 さてこの年のITFの会議にて、翌年の世界選手権の開かれる予定のノルウェー・リレハンメルの主催者から、ITFがFISに加盟する事を条件として、オリンピック施設を使って選手権を開催するが,FISに加盟しない場合は,世界選手権は開催できないと申し渡され、IFTはFISに加盟せざるを得ない状況となった。当時ITFのメンバー国で、自国のスキー連盟から承認されているのはノルウェーとスウェーデンだけであった。他のメンバーは皆、日本のように独自にテレマーク協会を作って活動をしており、まだテレマークがあまり知れ渡っていなかった当時、これらの国々は自国のスキー連盟と,同等の関係を作ることが出来ず,FISに加盟するということは自分の団体の運命を左右する問題であったが,そこまで先読みする国も少なく、またテレマークの普及のためとのノルウェーの態度が強くてあえて反対する国は多くはなく、FIS加盟が決議された。事実この後、FISに加盟したために,主導権は完璧に議長国ノルウェーに移り、それまで熱心に活動していたのにもかかわらずメンバーから外れていかざるをえなくなった国々もあり、国際テレマークの歴史はこの年を境に大きく変わっていくこととなった。またそれまで各地で開かれていた選手権をまとめてワールドカップシリーズとしたり、マスターズクラスを作るなど新しい試みが決定された。

 翌1995年、世界選手権はノルウェーのリレハンメルにて開催された。前年に開催された冬季オリンピックのバーンと設備を使っての、テレマーク発祥の地・ノルウェーの威信をかけた大会であった。世界選手権に先立ちオーダルで開かれたワールドカップ最終戦のあとバスを仕立てて選手団をかのテレマークの父、ソンドレ・ノルハイムの生地モルゲダールに連れて行き、彼の生まれ育ったという家の屋根からジャンプして町まで滑り降りるというファンレースを開いてからリレハンメル入りするという趣向で、夜開かれた開会式では、たいまつをもっての馬車のパレードのあと、スカートをはいた女性チームのランタン滑走、モルゲダールから運ばれた聖火の点火という、まさにオリンピックそのままの雰囲気の中大会は始まった。参加国16カ国、参加選手は開催国ノルウェーのジュニアを加えて約男子170名女子40名、結果はもちろんノルウェーの圧勝。オリンピックコースをフルに使ったレイアウトのレースコースはかなり厳しいものであった。特にクラシックのコースはノルウェーの威信をかけてつくってあり、コース長2.4キロ、標高差467メートル、ゲート数56、ヘリコ、ジャンプ、ウォッシュボード、長いアップヒルというハードなものであった。レース後に開かれた一般参加のファンレースは、旗門はないもののこのハードなクラシックコースの前に1.5キロのアップヒルが用意され、ノルウェーの底辺の広さ、一般人の技術の高さを見せつけられた。
 この時に開かれた会議において、ITFは正式にFISに吸収された。今後は参加国が集まっての会議は国際テレマークコンファレンスとして、FISテレマークコミッティに進言する事となり、正式議決はFISテレマークコミッティのメンバーによって行われることとなった。メンバーには、自国のスキー協会がテレマークを認めている国から出され、ノルウェー、スウェーデン、イタリア、イギリス、オーストラリアとなったが、イタリアはスキー協会のおくってきた代表で、それまでのテレマーク協会とは対立しており、またその後オーストラリアは抜け、スイス・アメリカがメンバーに入ることとなる。この会議において現在使われているシードリストが決議され、また世界選手権は2年に一度の開催となり、ワールドカップは全6戦となった。

 1996年はカナダのウィスラーにてワールドカップの最終戦が開催された。この年は前年の決定により世界選手権はなく、また地理的理由からかFIS加盟のせいか、参加国9カ国、参加選手男子70、女子25名、マスターズクラス40名と少なかったが、日本からは制限枠10名いっぱいを使い、さらにマスターズクラスとシチズンクラスの参加選手を加えて13名と最大のチームでの参加となった。正式種目のクラシックとGSに加えてスーパーG,パウダーエイト、デュアル、シチズンレース等が企画されていたが、主催者側とFIS側の連絡不足により、日程変更や大幅なプログラム変更があり、波瀾万丈の大会であった。この大会で日本は栃内・深町ペアが初めて行われたパウダーエイトで優勝を奪い取り、底力を見せつける事となり、我々にとっては歴史的な大会となった。正式種目では、FIS加盟によりスキー協会がテレマークにも力を入れはじめたのか、それまであまり目立たなかった国の躍進が感じられるようになった。特にスイスは上位に食い込む選手が現れ、その後活躍していくこととなる。

 翌1997年、ワールドカップ最終戦がフランスのヴァルトランスにて、その後世界選手権がスイスのマイリンゲンで行われた。この年初めての試みとしてワールドカップ最終戦においてテレマークスプリントが行われ、FISの正式種目として認められた。ワールドカップにおいて日本から参加の山田誠司が、クラシック20位、GS23位、また世界選手権で石木田博がGS29位を取り、日本にも速い選手が居ると印象づけることとなった。
 この年の会議において、とうとうスキー巾のルールを改正することが決議された。それまでスキー巾に関しては毎年議題に上ってきたが、ITC/ITFの長い会議の歴史から改正については慎重な態度をとってきたが、この前の年あたりからアルペンから転向してくるレーサーが増え、滑り自体がよりハードになってきており、今までの細い板ではレーシング技術に対して合わなくなってきたというのが大方の意見であった。ノルウェーは最後まで改正に慎重であったが、巾に規定はなくテレマーク用に製造された板であればOKとルールが改正された。

 長野でオリンピックが開催された1998年のワールドカップ最終戦は次期冬季オリンピック開催予定のアメリカ・ユタ州のソルトレークシティで開かれた。FISテレマークコミッティでは、テレマークをオリンピック公式種目にするために積極的に活動しており、ソルトレークシティでの最終戦開催は、地元にテレマークをアピールする良いチャンスであったが、オリンピック組織委員会は誘いには消極的であった。
 この大会直前にFISはテレマークスキーの用具ルールを暫定的に変更し、どんな板を使ってもよいとしてしまった。これは実際このシーズンのワールドカップでテレマーク用のスキー板が手に入らないという理由でアルペンの板にテレマークのビンディングをつけたものしか持ってこなかったノルウェー・スイスの選手達の実力行使の結果であった。
 アルペンレース出身のレーサーたちが多く参加するようになり、レーシングスキー技術はさらにレベルアップしてきた。ノルウェーは、選手の世代交代が行われ全く成績が振るわず、結果は上位をスイスが占める形となった。日本はスプリント・クラシックで山田誠司15位、松沢幸靖が22位とデモンストレーターの意地を見せ付けた。またファンレースではあるが、シングルポールスラロームで丸山信昭が7位という最高の成績を出した。

 翌1999年、初めて丸山信昭がワールドカップ全戦に参加した。この年のワールドカップ最終戦はノルウェーのオーダル、世界選手権がスウェーデンのストーテンで開催された。日本からの参加は6名、より厳しくなったペナルティーに泣くこととなったが、ストーテンの世界選手権では、自国スウェーデンの選手以外に偏って課せられた多くのペナルティーに選手が激怒し、レースをボイコットする騒ぎまで起こり、ジャッジの質等今後へ課題を残すこととなった。

 そして世界選手権のなかった2000年、日本からは大きなチームを作ってのワールドカップへの参加はなかったが、アメリカ・カナダの第3・4戦に3名、スイス・イタリアの第5・6戦に1名の選手がさらにアップした世界のレベルを経験してきた。
 日本からは、今まで第2回を除いて毎年欠かさず世界選手権・ワールドカップに参加してきた。勝手のわからない海外で、しかも自費参加で先輩レーサーたちが今まで努力して築き上げて来たこの実績は貴重なものである。世界の中でも、アジアの中でテレマークをやっている唯一の国として、日本に期待されていることは大きい。 

 2001年には2年に一度の世界選手権がフランス・ヴァルトランスにて開催される予定である。日本でもこの大会に焦点を合わせてトレーニングしているレーサーたちも多く、また昔のような大チームで現地に乗り込む可能性もある。今年の国内レースを見ても新しいレーサー世代が育ってきており、第1回世界選手権の頃とはすっかり変わった状況のなか、今後の日本選手の活躍が楽しみである。

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世界選手権&ワールドカップの歩み 2001-2007

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 記:畑 あやの

2001年 
ワールドカップ最終戦 Val Thorens (FRA)

2001年は、フランスのVal Thorensにてワールドカップ最終戦が開催された。レースは、GS,SP、CLの3種目が1レースずつ開催された。


2002年
ワールドカップ最終戦  ティン(tyin)(NOR)
 2002年には、ノルウェーのティンにてワールドカップ最終戦が開催された。この大会では、GS,SP,CLが12日間にわたり2レースずつ開催され、長期間の大会となった。


2003年
*世界選手権       ビッグマウンテン(アメリカ)
*ワールドカップ最終戦  クリスタルマウンテン(アメリカ)

参加選手
上野英孝 大河内延明 松澤幸靖 藤田昭平 中田隆司 佐治晋輔 本間公規 吉岡博満
藤川健 人野麻由美 宮沢恵美 園田佳代 畑あやの

2003年は、アメリカのクリスタルマウンテンでワールドカップファイナルが開催され、同じくアメリカのビッグマウンテンで世界選手権が開催され、日本からは男子9名女子4名と多くの選手を輩出することができた。また、2000年以降3年ぶりに女子選手を世界に輩出することができた。この年の大会に参加した選手の中には、数週間前から現地の環境での生活になれることと、トレーニングを目的とし滞在する姿も見受けられた。
 最初に訪れたクリスタルマウンテンでは、スキー場内のホテルに他国選手と共に滞在し、朝食以外の食事は自炊の予定だったが、ホテル室内での喫煙は勿論、匂いのきつい食べ物の飲食や、調理が硬く禁止されていたため、やむ終えず近くのコンビニ、もしくはピザのデリバリーで空腹を満たした。また、ワクシングルームも用意されておらず、ホテル広間のベランダに、バイスを設置し、新聞をチューンナップを行うものもおれば、床に直接板を置き、強引に行う者もいた。
 スキー場自体は、良質なパウダースノーを滑ることのできるスキー場としても有名で、大会前日には、1日に150センチの積雪を記録した日もあり、その影響を受けてか、コースインスペクションの際、ファットスキーを利用する選手の姿もあった。レースは、GS,SP,CLの3種目が開催され、コースの一部は斜度が急なため、雪が付かずブッシュが顔を出す箇所もあったが、硫安をまくなどして対処された。
 ジャンプや、バンクなども、日本ではみることのできない高さがあり、バンクも大きくコースに圧倒された。
 レースが始まると、自分のスタート順がまわってくるまでの間、体を冷やさないようアップし続ける選手や、歌を歌いだしたり、大声をだすなどし、おのおののスタイルで緊張緩和し、自分の世界へと入り込んでいく選手達。
 レースは、ノルウェー勢を中心に展開されていったが、女子に限っては、ノルウェーに加え、スイス、フランスのエースが上位を争う形となった。
 次に、会場をビッグマウンテンへと移し、世界選手権が開催された。ビッグマウンテンでは、スキー場付近のホテルに滞在したのだが、ワクシングルームが完備され、そのほかにジャグジー、サウナなどの娯楽施設も備わり、そして、毎朝自由に飲むことのできる、モーニングコーヒーブースが設けられ、リラックスした環境で試合に臨むことができた。2年に1度の世界選手権ということもあり、地元の応援団も駆けつけ、また、レース前には、参加国選手全員で、町を練り歩くパレードも催され、地元の歓迎を受けながらの開催となった。
 コースは、スキー場の山頂から山ろくまでを杯使用した長距離で、ジャンプも160センチを越す巨大なものが仕上がり、さらに圧倒されることとなった。コースが長いため、スターとのインターバルも非常に長く、体長管理に気を配る必要性があった。
また、現地の天候は芳しくなく、GSが開催日にはガスでレースが中止となり、翌日、GSの再レースとSPが開催され、過酷な1日となった。
 この大会でも、男子は北欧勢、女子はヨーロッパ勢が安定したすべりを見せ上位を占めた。
 大会終了後には、地元レストランにてパーティーが催され、他国選手との交流を深め合い、バンドの演奏を聴いたり楽しく、忘れられないひと時をすごすことができた。


2004年
*ワールドカップ        リューカン(NOR)
*ワールドカップファイナル   バイトストーレン(NOR)

参加選手
上野英孝 依田賢太郎 本間公規 人野麻由美 畑あやの

2004年は、ノルウェーのリューカン及びバイトストーレンにてワールドカップが開催され、日本からは男子3名女子2名の選手が参加した。開催地がテレマークの本場ノルウェーということもあり、どちらの大会にも地元テレマーカーや多くの住民が応援に駆けつけた。
 まず、向かったリューカンではコテージが用意され、自炊生活をすることとなり、ノルウェーサーモンのオーブン焼き、サンドウィッチなどを作り楽しく生活した。スキー場まではコテージから徒歩約5分。ブーツと板を担ぎ毎朝通った。大会ではウェーブだらけのコースと、スタートからゴールまで一望できるコースの2つが使用され、地元ファンの声援にこたえるかのようにノルウェー勢が上位を占めた。
 そして、次の大会に参加するためオスロから数時間バスを乗り、バイトストーレンへと移動した。バイトストーレンでは、参加選手全員が同じホテル内に滞在し、食事も用意された。スキー場までの移動は、車、もしくはバスでの移動で主催者側が用意するという話だったのだが、あいにく用意がされておらず、ワンボックスタイプのタクシーで移動することとなった。スキー場は、レストハウス1軒のみのこじんまりとしたスキー場で、スタートまではTバーで移動した。昼食は、レストハウス前に鉄板が用意され、その場で肉を焼きパンも振舞われた。
 大会前日には、コース上にポールがはられトレーニングコースが開放され、他国の選手の滑りをじっくりみることができよい刺激となった。しかし、選手の中には、ちょっとした気の緩みから、腕を骨折してしまう選手や、大たい骨を骨折しヘリで搬送される選手もおり、場は一時騒然とした。
 レースは毎年恒例のGS,SPCLの3種目が開催され、小さいチームではあったが、日本チームはこの大会で多くの成績を残すことが出来た。
 まず、世界大会2度目の挑戦となる上野英孝選手が、この大会だけに設けられた特別賞、「今大会に参加した選手の中で最も遠くまでジャンプを飛んだ選手」として世界bPの座を獲得し、一方女子の畑あやの(あじゃ)選手が、19歳未満の選手で競われるジュニア部門で、GS4位、CL6位に入賞し男女共に、日本の存在を世界にアピールすることが出来た。
 

2005年
*ワールドカップファイナル  バイトストーレン(NOR)
*世界選手権         リューカン(NOR)

参加選手
上野英孝 大河内延明 松澤幸靖 久田重太 橋谷水樹 泉谷政人 安池真 藤川健
安池直子 依田淳子 畑あやの

2005年は、昨年に続きワールドカップファイナルがノルウェーのリューカンで、そして世界選手権がノルウェーのバイトストーレンで開催された。この大会に日本から参加した選手の中には、大会数日前から現地で滞在し、雪上トレーニングを実施する選手もおり、大会に対する意気込みを感じることが出来た。
 まず、開催されたバイトストーレンでの世界選手権では、昨シーズンの反省も踏まえ、スキー場までの交通手段や、食事の質の向上などがなされていた。スキー場までは、バスが用意され、他国選手と共に和気藹々と移動し、食事も、フルコースとまではいかないものの、スープとメイン、そしてデザートが付き、選手のストレスが少しでも減らせるようにという主催者側の気配りがなされたいた。
 レースで使用されたコースは、うねりが強く、次の旗門が見えない箇所があり、また、クロスカントリーのコースを完備しているスキー場であったため、長距離に及ぶランセクションに苦しめられることとなった。大会にはレースを観戦するため、ノルウェーの女王陛下がお出ましになり、地元ニュースにも取り上げられるなど、ノルウェーの人々にとってテレマークがごく身近な存在であるという、日本との大きな違いに驚かされた。
 そして、会場をリューカンへと移し、ワールドカップの最終戦が開催された。この大会で使用されたコースは、スタートからゴールまでが一望できるコースで、地元応援団も多く駆けつけ、ランセクションではあちこちから声援やカウベルの音が鳴り響き、ファンも、選手も共に楽しむことのできたレースであった。そんな中、日本のエース上野英孝選手が勢いかつ安定感のある滑りを見せ、SPで日本過去最高となる5位入賞を果たした。
 日本人がこのように表彰台に上るのは始めての快挙で、世界からの注目を浴びると同時に、今後世界を目指す日本人選手に大きな夢と希望を与える結果となった。


2006年
*ワールドカップ  マイリンゲン(SWI)
参加選手 
上野英孝 園田佳代 畑あやの
監督兼カメラマンとして whitedepot 鈴木繋二

2006年は、スイスのマイリンゲンにてワールドカップが開催された。日本からは、選手3名とカメラマンとして札幌でチューンナップショップを経営する鈴木繋二氏が参加した。この遠征では、日本出発の飛行機の中で畑あやの(あじゃ)選手が貧血で倒れ、現地に到着すると、昨年に続き入賞が期待されていた上野選手が急性胃腸炎に感染し入院するというアクシデントに見舞われ、少人数参加の日本にとっては、厳しい遠征となった。
  チューリッヒから電車で数時間のところに、マイリンゲンは位置し、その一角に設けられたゴンドラ乗り場からスキー場へと向かった。この大会では、アメリカ、スペインチームと同じホテルに滞在し、食事も一緒にとることとなった。食事は、スープに始まりデザートに終わるフルコースで、旅とレースの疲れで疲労困憊の体にムチを打ち2時間以上の時間を費やした。
 スキー場は前面オフピステで、雪崩が時々発生するためクローズになることもあった。そのようなスキー場に圧雪車が入り、仕上がったコースは片斜のテクニカルなものとなった。ジャンプも今までのように、勢い良く突入すれば、ラインを超えられるというものではなく、踏み切りとそのタイミングが重要となった。また、標高も1800mと高くそのため天候が変化しやすく、レース2日目の男子SPは天候悪化のため中止となった。
 レースが終わると、翌日の予定や、本日の反省などを行う『チームキャプテンズミーティング』が開催され、それに参加しなければいけなかったりとあわただしい毎日を過ごした。しかしながら、この大会でも、女子の畑選手がSPで日本人女子初となる6位入賞を果たし、昨年の上野選手に続き、成績を残すことが出来た。
 大会最終日になると、入院生活を余儀なくされていた上野選手が復活し、選手全員で大会に参加することができた。
 今大会では、鈴木繋二氏がカメラマンとして同行してくださり、数多くの徹底的瞬間を写真に収めその様子は、同年に販売されたスキーグラフィック6月号に、上野選手の記事と共に、掲載され始めて日本の多くのスキーヤーにテレマークレースの存在を伝えることが出来た。


2007年
*世界選手権  ティオン2000(SWI)
参加選手
上野英孝 藤川健 松澤幸靖 久田重太 橋谷水樹 福島邦男 吉岡博満 吉田時男 
山口清一 依田賢太郎 園田佳代 安池直子 伊藤奈生子 高橋絵里子 畑あやの

 2007年には、2年に一度の世界選手権がスイスのティオン2000で開催された。日本からは、世界最年長参加となった山口清一選手を含む、男子15名、女子4名の選手が参加した。
ジュネーブ空港から電車で約2時間先のシオンという町にある、標高2000mを越すスキー場がティオン2000だ。そのような高地での生活になれていないため、具合を悪く選手も中にはおり、厳しいレースを強いられた。選手は、スキー場内のコンドミニアムに滞在し、朝食は、コーヒーにハム、パンのような外国ならではのスタイルで、昼食は、スキー場の一角にテントを構え、ジャガイモ、スープのような軽食が振る回れ、夕食は、肉をメインにデザートも振舞われるなど、食事は全て用意された。
 レースは毎年恒例のGS,SP,CLの3種目が開催された。レースバーンは青光りする氷が一面に張り巡らされたような硬いバーンで、其の上スタート地点は無論、ゴール地点も標高が2000m近くあったため、凍りつくような冷たく薄い空気が選手の体力を蝕んだ。クラシックレースの際は、ゴール直後、倒れこむ選手も多く見かけた。
また、この大会では、選手がレース中に人口降雪機に衝突しヘリで搬送され、現地の病院にそのまま入院し、手術するという大事故も発生し、現場は一時騒然とした。(現在、被害にあった選手は日常生活に差し支えない程度まで回復している。)
 レースは、北欧勢を中心に展開されたが、カナダやスイスなど他国選手の成長も感じさせられる大会となった。特に、カナダの選手は、この世界選手権に向け、選手が集まり合宿を行うなどしチームとしての質を高めることに成功している。また、ノルウェー、スイス、アメリカなどから多くのジュニア選手が送り込まれ、次世代選手の育成にも力を入れ始める国が多く、ベテラン選手に劣らない素晴らしい滑りを見せた。

次の世界選手権は2009年にオーストリアのクライッシュベルグで開催される予定だ。現在TAJでは選手強化部を設立し、選手強化及び育成にのりだそうとしている。選手強化部発足1回目となる2009年の世界選手権で、世界があっと驚くような日本チームに出会えることを期待したい。


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世界選手権・ワールドカップ年表

  場所 参加レーサー
第1回 1987 ノルウェー ヘムセダール 澤田啓・山崎守
第2回 1988 フランス サンジェルベ   
第3回 1989 オーストリア サンアントン 松本美富・坂根一弘・田中公人・横山雅直・白石由美
第4回 1990 アメリカ アスペン 石川秀行・栃内譲・松本美富・坂根一弘・田中公人・山口孝幸
西村正敏・白石由美
第5回 1991 スウェーデン ヴェムダーレン 渡辺邦弘・山口孝幸・高橋伸夫
第6回 1992 スイス エンゲルベルグ 栃内譲・松本美富・永島秀之・大学俊一
第7回 1993 イタリア クールメイユール 栃内譲・山口孝幸・高橋伸夫・山野井克己・永島秀之・望月隆・駒米彰子
第8回 1994 フランス ラクルーザ 栃内譲・深町計彦・山野井克己・望月隆・永島秀之・山口孝幸
駒米彰子・北村系子
第9回 1995 ノルウェー リレハンメル 栃内譲・深町計彦・丸山信昭・永島秀之・望月隆・岡秀樹・一戸康彦
菊地明彦
WC 1996 カナダ ウィスラー 栃内譲・深町計彦・五味隆登・瀬戸和之・永島秀之・丸山信昭・岡秀樹
中島修一・鈴木央司・菊地明彦・山田誠司・森山繁夫・高梨ゆたか
WC 1997 フランス ヴァルトランス 栃内譲・永島秀之・丸山信昭・小笠原永峰・山田誠司・高梨ゆたか
望月隆・富士太右
第10回 1997 スイス マイリンゲン 栃内譲・永島秀之・丸山信昭・小笠原永峰・高梨ゆたか・望月隆
富士太右・石木田博
WC 1998 アメリカ ソルトレーク 丸山信昭・永島秀之・山田誠司・栃内譲・松沢幸靖・石木田博
富士太右・鈴木央司・佐地晋輔
WC 1999 アメリカ ソルトレーク・モンタナ 丸山信昭
WC 1999 スイス・フランス 丸山信昭・永島秀之
WC 1999 ノルウェー オーダル 丸山信昭・松沢幸靖・佐地晋輔・高橋俊哉
第11回 1999 スウェーデン ストーテン 丸山信昭・松沢幸靖・佐地晋輔・高橋俊哉・山口正俊・野村みどり
WC 2000 アメリカ・カナダ モンタナ・キンバレー 丸山信昭・永島秀之・五十嵐あずさ
WC 2000 スイス・イタリア ダヴォス・リビーニョ 鈴木健司
第12回 2001 フランス ヴァルトランス

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